2018年1月8日月曜日

人減定着の時代・明和~天明期を振り返る

2060~2090年の人減定着社会は、明和~天明期(1764~89年)に相当し、人口減少にようやく慣れなじんで、その利点を徹底的に活用していく時代となる、と述べてきました。

明和~天明期の社会的特性についても、電子本『
平成享保・その先をよむブログ「平成享保のゆくえで詳しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。



①当時の人口は、明和5年(1768)の3150万人から安永9年(1780)の3121万人を経て、天明8年(1786)の3010万人にまで約140万人も減っています。


②この時代に幕政の実権を担って、大胆な政策を展開したのは、老中兼側用人の田沼意次でした。田沼は、紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意行の長男として、享保4年(1719)に江戸で生まれ、同19年(1734)、吉宗の世子・徳川家重の西丸小姓に抜擢されて、同20年(1735)に田沼家600石を継承しまました。

③田沼は延享2年(1745)、家重の九代将軍就任に随って本丸に入り、寛延元年(1748)に小姓組番頭格から小姓組番頭に、宝暦元年(1751)に御側御用取次側衆に、同8年(1758)に評定所への出座に伴って一万石の大名に取り立てられ、遠江国相良に領地を与えられました。

③宝暦11年(1761)に家重は死去しましたが、その遺言で世子の十代将軍・徳川家治の御用取次に留任し、明和4年(1767)に側用人、同6年(1769)、側用人のまま老中格・侍従、明和9=安永元年(1772)に老中へ昇進しました。側用人が老中になったのは田沼が初めてでした。

④天明年間(1781~1788)には、同3年(1783)に岩木山や浅間山が噴火し、日射量の低下で数年間、各地で深刻な飢饉が起こりました。そうした中でも、息子の田沼意知を若年寄に昇進させ、意次の権勢はいっそう拡大しましたが、翌天明4年(1784)、意知が江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起こり、前途にやや翳りが生じました。

⑤それでもなお意次は天明5年(1785)に1万石を加増され、遠江国相良藩5万7000石の大名になりましたが、天明6年(1786)、将軍・家治の死によって、閏10月に差控を命ぜられ、ついに失脚しました。

⑥以上の経緯で、短期間に異例の昇進をとげた田沼は、宝暦11年(1761)ころから、明和(1764~71)、安永(1772~80)を経て、家治の死去で失脚する天明6年(1786)までの20数年間、幕政の中枢を担っていきます。

⑦田沼の政治は、八代将軍・徳川吉宗による享保の改革や大岡忠光による側用人執政の後を受けて、幕政の基礎である「石高経済」を根本から見直し、重商主義的な財政運営を導入することに成功しました。その画期性ゆえに、彼の執政した20数年は「田沼時代」と名づけられています。

こうしてみると、人減定着期である明和~天明期とは、「石高経済」から「重商経済」への一大転換期でもあったのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿