2018年1月30日火曜日

田沼政権の10大政策・・・その2

前回に引き続き、人口減少社会に対応すべく、田沼政権の行った10大政策のうちの6~8を紹介します。

●第6政策=新しい産業を振興する

田沼時代は、石高経済が限界化し、商品経済が拡大する中で、幕府の財源となるような、新たな産業の振興が求められていました。

こうした要請に応えて、田沼政権がまず取り組んだのは、鉱山の開発でした。宝暦~明和期になると、新たな貨幣の素材として銀が必要でしたが、国内の生産量だけでは無理でしたから、宝暦13年(1763)には中国から、明和2年(1765)にはオランダから、それぞれ銀を輸入しています。その見返りとして銅の輸出が必要となりましたので、政権は国内銅山の開発に取り組みました。

続いて鉱物資源の流通統制にも手を付け、明和3年(1766)に大坂に銅座を設立して、諸国で採掘された銅を一手に集荷させたうえ、独占的に販売して、銅の増産を奨励しました。明和4年(1767)になると、金・銀・銅・鉄・亜鉛鉱山の新規開発や既存鉱山の再開発を促し、天明6年(1786)には大和金剛山の金・鉄採掘を命じています。

もう一つは、急速に発展してきた蘭学を応用して、輸入品を国産化することでした。朝鮮人参、白砂糖、輸入品の国産化などを積極的に推進し、殖産興業に努めています。




●第7政策=貿易を見直す

当時の国際貿易の課題は、貴金属の輸出を抑えて、俵物(漁業加工物)の比重を増やすことでした

第6政策で述べたように、宝暦13年(1763)には中国から、明和2年(1765)にはオランダから、それぞれ銀を輸入しましたが、これには当然、対価となる輸出商品が必要でしたから、田沼政権は銅山の開発とともに、俵物の生産・輸出を積極的に奨励しました。

当初は個々の商人から別々に購入していた俵物を、延享元年(1744)からは請負商人を指定して独占的に買い集める方式へ切り替え、さらに天明5年(1785)には、長崎会所自らが産地に赴く「直買方式」へ移行させました。

「直買方式」では、大坂・箱館・長崎に俵物役所を、また下関・江戸に指定問屋をそれぞれ設置したうえ、全国に世話人や買い集め人をおき、会所の役人が浦々をまわって即金で買い上げるしくみを作り上げました。

●第8政策=大名・旗本を支援する

石高経済が破綻する中で、窮地に陥った大名や旗本の救済が急務となりましたが、ここでも田沼政権は伝統的な支援方法を改め、商人層の活用を進めています。

明和8年(1771)4月、幕府は5カ年の倹約令を発するとともに、財政支援のため大名・旗本などへ貸与する拝借金制度を停止し、さらに天明3年(1783)の7カ年倹約令によって全面的に停止しました。

しかし、困窮する大名・旗本が増えたため、政権は拝借金に代えて、天明3年(1783)に新たな御用金政策を打ち出しました。大坂豪商の巨額な資金を大名・旗本への金融や幕府の利益に活用するのが目的でした。

天明5年(1785)になると、この制度を強化するため、第2次御用金令を発しました。貸付金の利息が7分、そのうち1分を幕府に上納するもので、幕府は最大で6万両を手に入れる計画でした。しかし、豪商たちが「貸し渋り」という手法で抵抗したため、発令して1年も経たないうちに中止されました。

この失敗を巻き返すため、田沼政権は新たな金融政策として、天明6年6月、全国御用金令とそれを財源とした貸金会所設立を構想しました。

新しい令は、諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両、全国の百姓は持高100石につき銀25匁、全国の町人(地主)は所持する町屋敷の間口1間につき銀3匁を、それぞれ天明6年から5年間、毎年出金せよ、と命じるものです。大坂の豪商に限らず、全国の百姓、町人、寺社に「広く薄く」御用金をかける、という計画でした。

貸金会所は、こうして集めた御用金に幕府が資金を加えて大坂に設立したもので、会頭が融資を希望する大名・旗本に年7朱(7パーセント)の金利で貸し付ける機関です。その担保には、大名・旗本が発行した米切手か、あるいは借金額に見あった大名・旗本領の村高をあて、返済が滞った場合には、米切手を換金するか、それらの領地を幕府の代官が管理して年貢で返済する、という方式でした。年利7朱はかなり低利ですが、返済不能の場合も確実に元利を回収できるしくみになっており、貸金会所はいわば大名・旗本向けの幕府銀行といえるものでした。

2つの計画がうまくいけば、70万両を超える金額が集まる見込みでした。しかし、これについても全国民からの猛烈な反発にあって、わずか2カ月足らずの8月24日に中止されています。

以上のように、田沼政権は従来の石高経済を脱した諸政策を展開していますが、あまりの斬新さ、あるいは性急さのため、しばしば頓挫しています。

2018年1月17日水曜日

田沼政権の10大政策・・・その1

田沼政権は人口減少社会に対応して、さまざまな政策を展開しています。

前政権・八代将軍・吉宗の厳しい倹約政策と年貢政策で、幕府財政は一時的に改善されていましたが、天領への搾取を強めたことで、延享~宝暦期に入ると、百姓一揆が増発し年貢は徐々に減少し始めます。

宝暦期が進むにつれ財政は急速に悪化したため、政権を握った田沼は石高経済を維持・再建しつつも、新たな財源の拡大に全力を注ぎます。

その努力が実って、13年間で年間収支を黒字に転換させ、以後10年間もプラス状態を保っていきます。

この成功を基礎に、田沼はさらに長期的な政策にも取り組み、新たな貨幣・金融・課税政策、斬新な産業育成政策、新田開発や蝦夷地開発政策を展開しました。

これらの点については、先達研究者のさまざまな研究がありますから、これらを基礎に独自の視点から整理してみますと、次の十大政策が浮かんできます(詳細は電子本『
平成享保・その先をよむ』参照)。

●第1政策=財政を再建する
石高経済から商品経済へ、経済構造が移行している以上、幕府財政の財源もそれに対応した多角化が必要でした。そこで、新たに強化したのが、冥加金や運上金という課税制度です。冥加金とは、山野河海などの利用権や営業権を幕府から許可された商工業者が、収益の一部を献金として上納するものです。また運上金とは、商業、工業、運送業、漁業、狩猟などに従事する者に課せられた、新たな租税でした。

●第2政策=米価を引き上げる
享保期以来の「米価安の諸色高」は、20年を経た宝暦期にもさらに強まっていましたので、田沼政権はまずは「米価高」をめざして①囲籾、②米切手統制、③買米など米価政策を実施しました。囲籾とは、籾米を各藩内に留め置き、流通量を減らして米価を上げるもの、米切手統制とは、年貢米を落札した米仲買人が発行する米切手を統制するもの、買米とは大坂の豪商に命じた御用金で市中から米を買い上げて米価を高くするものでした。

●第3政策=物価を引き下げる
幕府の支出を抑えるためには、物価の引下げや安定化も緊急の課題でした。そこで、田沼政権は、一方では株・座・会所などによる商工業団体への価格統制を強化し、他方では幕府の介入で諸色価格の安定を図っていきます。とりわけ、都市の拡大と人々の暮らしの変化によって需要が増えた燈油と、国民的な衣料となった木綿については、その価格を安定させるために、株仲間を通じた流通統制を実施しました。

●第4政策=3貨制度を見直す
当時の通貨制度は、江戸時代前期に作られた金・銀・銭の3貨制でしたが、元禄・享保を経たころから、石高経済から商品経済への移行が急進したため、全国的な統一貨幣への要求が高まっていました。そこで、田沼政権は「明和五匁銀」と「南鐐二朱銀」を発行して、統一貨幣をめざしました。

●第5政策=農地・国土を拡大する
戦国時代から一貫して拡大を続けてきた農地開発は、元禄期前後に開発適地の限界化で停滞するようになり、農業政策の中心も土地生産性の最大化をめざす精農主義へと移行していました。しかし、徳川吉宗は改めて新田開発に取り組んでいましたので、田沼政権もこれを継承し、江戸町人の希望者に下野・下総・常陸の荒地を下付して新田開発を奨励し、下総国印旛沼・手賀沼の開拓、さらには蝦夷地の開発事業にも取り組んでいきます。

まずは5つの政策を掲げます。残りの5つは次回で展開します。

2018年1月8日月曜日

人減定着の時代・明和~天明期を振り返る

2060~2090年の人減定着社会は、明和~天明期(1764~89年)に相当し、人口減少にようやく慣れなじんで、その利点を徹底的に活用していく時代となる、と述べてきました。

明和~天明期の社会的特性についても、電子本『
平成享保・その先をよむブログ「平成享保のゆくえで詳しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。



①当時の人口は、明和5年(1768)の3150万人から安永9年(1780)の3121万人を経て、天明8年(1786)の3010万人にまで約140万人も減っています。


②この時代に幕政の実権を担って、大胆な政策を展開したのは、老中兼側用人の田沼意次でした。田沼は、紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意行の長男として、享保4年(1719)に江戸で生まれ、同19年(1734)、吉宗の世子・徳川家重の西丸小姓に抜擢されて、同20年(1735)に田沼家600石を継承しまました。

③田沼は延享2年(1745)、家重の九代将軍就任に随って本丸に入り、寛延元年(1748)に小姓組番頭格から小姓組番頭に、宝暦元年(1751)に御側御用取次側衆に、同8年(1758)に評定所への出座に伴って一万石の大名に取り立てられ、遠江国相良に領地を与えられました。

③宝暦11年(1761)に家重は死去しましたが、その遺言で世子の十代将軍・徳川家治の御用取次に留任し、明和4年(1767)に側用人、同6年(1769)、側用人のまま老中格・侍従、明和9=安永元年(1772)に老中へ昇進しました。側用人が老中になったのは田沼が初めてでした。

④天明年間(1781~1788)には、同3年(1783)に岩木山や浅間山が噴火し、日射量の低下で数年間、各地で深刻な飢饉が起こりました。そうした中でも、息子の田沼意知を若年寄に昇進させ、意次の権勢はいっそう拡大しましたが、翌天明4年(1784)、意知が江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起こり、前途にやや翳りが生じました。

⑤それでもなお意次は天明5年(1785)に1万石を加増され、遠江国相良藩5万7000石の大名になりましたが、天明6年(1786)、将軍・家治の死によって、閏10月に差控を命ぜられ、ついに失脚しました。

⑥以上の経緯で、短期間に異例の昇進をとげた田沼は、宝暦11年(1761)ころから、明和(1764~71)、安永(1772~80)を経て、家治の死去で失脚する天明6年(1786)までの20数年間、幕政の中枢を担っていきます。

⑦田沼の政治は、八代将軍・徳川吉宗による享保の改革や大岡忠光による側用人執政の後を受けて、幕政の基礎である「石高経済」を根本から見直し、重商主義的な財政運営を導入することに成功しました。その画期性ゆえに、彼の執政した20数年は「田沼時代」と名づけられています。

こうしてみると、人減定着期である明和~天明期とは、「石高経済」から「重商経済」への一大転換期でもあったのです。