2018年4月19日木曜日

人口波動で世界の未来を読む!

日本波動で日本の未来を展望してきましたので、視点を大きく広げて、世界波動で世界の未来を読んでみましょう。

21世紀前半の世界の様相を、人口波動の上でモデルを求めてみると、下に示したように、14世紀という時代が浮上してきます。



世界波動を振り返ると、農業後波は8~14世紀の、また工業現波は15~21世紀の、それぞれ700年間の波動ですが、2つを比べてみると、14世紀と21世紀はともに人口容量の飽和期にさしかかった時代を示しています。とりわけ、21世紀前半は人口が容量の上限に接近していくという点で、14世紀とかなり共通しています。

この14世紀、歴史学上では「中世後期」とよばれている世界は、一体どのようなものだったのでしょうか。年代順に大きくとりまとめてみると、次の6つが指摘できます。

寒冷化の進行・・・14世紀初頭から地球の平均気温低下、つまり小氷期が始まって、19世紀半ばまで続いていきます。


この寒冷化によって、農業後波を支える農耕牧畜には大きな被害が出ました。ヨーロッパでは飢饉が頻繁し、1315~17年に150万人もの餓死者が出ています。疾病による死者も増加し、アイスランドでは人口が半分に減り、グリーンランドのヴァイキング植民地は全滅に至るなど、各国の人口が大きく減少しています。

100年戦争の継続・・・ヨーロッパでは、領土問題や国王継承権などを巡って、イギリスとフランス間で百年戦争(1339~1453)が勃発し、戦死者の増加や戦地の荒廃などで両国の人口が減少しています。

ペストの大流行・・・中国大陸で発生しペストは、1320年代に中国の人口を半分に減少させた後、モンゴル帝国が建設した、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易ルートに乗って、中央アジアを横断し、1346~47年にイタリアのシチリア島に上陸しました。


翌48年にはアルプスを越えてヨーロッパ全土に広がり、14世紀末までに3回の大流行と多くの小流行を繰り返しました。このため、全世界でおよそ8,500万人ヨーロッパでは人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されています。その影響で、農奴不足が続いていた荘園制の維持がさらに困難となりました。

アジア新国家の誕生・・・13世紀にユーラシア大陸を覆っていたモンゴル帝国が弱体化したため、アジア各地では西アジアのオスマン帝国(1299)、中国の明王朝(1368)、中央アジアのティムール朝(1369)など、新しい国家が次々に誕生しました。


これらの帝国では、モンゴル帝国の統治下で普及した黒色火薬砲(大砲や小銃)を軍制の中核に据えて、戦術や軍隊の大規模化を競になっています。

経済活動の縮小・・・13世紀に成立したモンゴル帝国の支配、つまり「パックス・モンゴリカ」によって交易圏が広がり、貿易活動が過剰に活性化した結果、財貨の過剰流動性の制御が困難となってきました。


また通商に用いられた、主な決済手段は銀の価値に依存していましたが、それが当時のユーラシア大陸全体に保有されていた銀の総量を超えてしまいました。こうした要因が重なって、全世界的に経済活動が急激に縮小しました。

イタリア・ルネサンスの勃興・・・ペストによる人口大減少の後、14世紀の後半になると、詩人ダンテや人文主義者ペトラルカなどが始めていたイタリア・ルネサンスが、地中海貿易で繁栄した北イタリアのフィレンツェを中心とするトスカーナ地方で拡大し始め、次の時代を切り開く知性を醸成することになっていきます。

以上のように、14世紀の世界は、農業後波の成立条件の一つ、農業基盤を寒冷化の進行によって脅かされながら、戸惑いと混乱に陥りながらも、密やかに次の波動への準備を始めている読み取ることができます。

2018年4月10日火曜日

「平成享保」から「××明天」へ!

新天皇即位と新元号制定が近づいてきたためか、「平成享保」の次はどうなるか、とのお問い合わせをいただくようになりました。

平成享保」という言葉は、筆者が平成元年(1989年)に、某新聞のエッセイで初めて使った造語です。

昭和39年(1964年)に、福田赳夫氏(後の首相)が当時の世相を「昭和元禄」と表現されたことを継承し、次の「平成」は「享保」に近づくと予想したのです。

根拠となったのは、人口の動向です。「昭和」と「元禄」はともに人口増加が続いていた時代でしたが、「平成」は「享保」と同じく、人口がピークから減少へ向かう転換期と予測されていたからです。

人口の動きが世相を決めるという発想は、筆者の提唱する「人口波動法」という未来予測法に基づいています。

詳細は拙著『
人口波動で未来を読む』や『日本人はどこまで減るか』などで述べていますが、WEB上では筆者の主宰するサイト「現代社会研究所」の人口波動研究室においても、一通り説明しています。

要約すれば、いつの時代においても、人口の動きによって同じような世相が現れる、というものです。

この視点に立つと「平成享保」の後の時代は、次のように名づけるべきだと思います。

次の元号はおそらく30~40年間使われ、その後、再び新たな元号に改元されると予想されます。

つまり、2019年から2060年ころまでは「新元号」、次の2060年から2100年ころまでは「新々元号」になるものと思われます。

そうなると、図に示したように、人口波動の農業後波と工業現波のアナロジーによって、次のような対応が予想できます。




つまり、「平成享保」の後にくる、約40年は××寛」(保-延享-寛延-暦期:1741-1764を略す)となります。

その次に来る約40年は××明天」(和-安永-明期:1764-1789を略す)となります。

もっとも、寛保~宝暦期は未だ人口減少対応への混乱期であるのに対し、明和~天明期はこのブログで何度も述べてきたとおり適切な順応期に当たります。

その意味では、来年から始まる新元号の時代は、さらなる期待を込めて××明天」とよぶことが望ましいのではないでしょうか。


(この予測については、下記で詳細に展開しています!)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N6LFJPO

2018年3月30日金曜日

人口の地方分散が始まる!

東京圏への一極集中で地方の人口減少が懸念されていますが、この傾向はいつまで続くのでしょうか。

人口波動の歴史を振り返ってみると、農業後波の人口減少期であった、享保~化政期の人口分布は、集中から分散へと移行しています。

この件については、すでに10年前、拙著『「増子・中年化」社会のマーケティング』(生産性出版、2008年、212~212P) の中で述べています。

もっと長期的に考えると、人口減少時代とは、従来の一極集中時代が終わり、多極分散への移行がはじまる時期である。先にあげた国立社会保障・人口問題研究所の都道府県別推計とは違って、2050年ころになると、東京、大阪、名古屋といった大都市が限界に達し、札幌、仙台、金沢、広島、福岡といった地方中枢都市の比重が次第に増してくることになろう。

同様の事例は、人口が増加から減少に移った江戸中期にも発生している。江戸、大坂、京都の人口は飽和化し、代わって仙台、金沢、博多など地方の有力都市が伸びてきた。(中略)江戸は120万人ほどで上限に達し、以後は伸び悩んでいる。その要因は上水道の限界で水質が悪化したり、人口密度の上昇で生活環境が劣化したためだ。

このことは、一つの人口波動を支える主導技術が限界に来ると、中心都市の人口密度を支える都市技術もまた限界化し、人口を抑制することを示している。だが、地方の有力都市の人口密度は、中心都市の水準までは上昇が可能であるから、さらに増加が続く。その結果、日本全体の人口が減り続ける中で、相対的に人口分布は集中から分散へ移行し、社会・経済・文化などで地方都市の力が強まってくる。

21世紀の東京圏の人口容量もやがて限界に達する。おそらく水不足、電力不足、廃棄物処理などの限界化で総合的な居住水準が低下し始め、それとともに人口の急減がはじまるだろう。

同様の事態が大阪圏や名古屋圏にも波及するから、やや遅れてこれら2大都市圏でも人口減少がはじまる。だが、札幌、仙台、金沢、広島、北九州などの限界化はもっと遅れるから、その間は相対的に人口分散が進ことになる

以上の文意をグラフ化したものが上の図表です。
 

上図を見ると、人口が停滞から減少に移行するにつれて、3大都市圏の比重もまた低下し、代わって地方圏の割合が拡大しているのが読み取れます。

もしこれと同じことが起きるとすれば、2040~80年の間には、なお続く人口減少のもとで地方へ人口分散が進むことが予想できます。

2018年3月19日月曜日

人口減少の底を打つ!・・・明和・天明から文化・文政へ

田沼政権による明和・天明期の幕政転換によって、江戸型の人減定着社会が見事に成立しましたが、その成果がさらに顕在化したのは、10数年に始まる文化・文政期でした。

天明6年(1786)前将軍・家治の急死で、翌天明7年(1787)に15歳で第11代将軍に就任した徳川家斉は、田沼意次を罷免し、代わって吉宗の孫で陸奥白河藩主の松平定信老中首座に任命しました。

定信は、翌年から「寛政の改革」(1788~93)を主導し、田沼の重商主義を真っ向から否定して、質素倹約を旨とする緊縮政策へ切り替えました。せっかく生まれた「商業経済社会」を再び「石高経済社会」へと後戻りさせる、まさに退嬰主義でした。

それゆえ、この改革は財政的に失敗し、田沼時代の資産を食いつぶして、江戸市中には「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」という狂歌が流行、田沼時代を懐かしむ声も広がりました。このため、寛政5年(1793)、定信は老中を解任されました。

幕政の実権を握った将軍・徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間(1804~41)、いわゆる「化政時代」を作り出します。

田沼政権の成果を基礎にした、華美・驕奢な大奥生活を展開したため、その気風が町民層にまで及んで高額消費も拡大し、ついに世相は爛熟・頽廃の極に達しました。

その一方で、側近政治の拡大や政治の私物化で腐敗が進行し、歳入は増えたにも関わらず財政は再び悪化、物価の高騰や銭相場の下落で庶民生活にも影響が及んできました。


しかし、家斉は特定されただけでも16人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子女53人をもうけ、いわば多産」時代への旗振り役を務めました。

こうした家斉の象徴的な人口増加対応によって、農業後波の人口減少は底を打ち、増加への橋掛かりをつけていきます。

2018年3月8日木曜日

ポスト平成が見習うべきは・・・

田沼政権が行った諸政策は、人減定着時代に的確に対応したものでした。

よりマクロな視点に立てば、農業後波の最終期に対応した政治・経済の方向は、工業現波の最終期に向かいつつある現代日本に対しても、さまざまな示唆を与えてくれます。

とりわけ参考にすべきは、次の3つではないでしょうか




モノ主導構造からコト主導構造へ積極的に対応
人口波動の最終段階である下降期には、波動を作り出した物質的技術が停滞し、代わって情報的技術が拡大するという特性があります。

農業後波の下降期である明和・天明期には、「農業の停滞で商業・金融の拡大」により「米価安の諸物高」が起こり石高経済から商業経済へ」の転換が進みました。

工業現波の下降期である現代に当てはめれば、「工業の停滞で情報産業の拡大」によって、「モノ安のコト高」あるいは「ハード・デフレのソフト・インフレ」が起こり、工業経済から情報経済へ」の転換が始まっています。

人減定着期の諸政策は、以上のような生産・経済構造の激変に、積極的に対応していくことが求められます。

コト主導経済へ税収構造も転換
農業後波の下降期に進んだ「石高経済から商業経済へ」の転換に対応して、田沼政権は「農民への減税」と「商業・金融資本への増税」を同時に進めることで、悪化していた幕府財政を見事に立て直しました

赤字財政の進む現代日本でいえば、1次・2次産業へ減税」と「3次産業=情報生産・流通・金融産業への増税」といった、大胆な政策転換が求められます。

情報産業界からの献策重視
田沼政権は幕政改善のためのアイデアを、幕府の内部にこだわらず、広く全国民に求めました。


とりわけ「商業・金融資本への増税」を進めるうえでは、その対象となる、豪農や豪商からの献策を積極的に取り上げています。

現代日本においても、政府部内での検討を大きく超えて、国民各層からの財政改善案を広く求めることが必要でしょう。


とりわけ情報化社会を主導して、莫大な利潤を上げている情報生産・流通・金融産業界の経営者や関係団体などから、社会貢献的な財政改善提案を引き出すことが求められます。

人減定着時代という、共通する社会環境を前提にすれば、明和・天明期に田沼政権の行った、卓越した諸政策は、ポスト平成の社会・経済・財政政策にもさまざまな示唆を与えてくれます。

2018年2月27日火曜日

田沼政権・3つの原動力

田沼政権の行った諸政策は、かなり大胆で画期的なものでした。

それでもなお、かなりの進展を見せた背景には、次の3つの利点があったからだ、と思われます。




常識・通念を超える実行力
その発想や政策が、従来の常識や通念を根本からひっくり返すものでした。石高経済からの脱出や商業資本の導入といった発想は、それ以前にも生まれていたのですが、幕府の政策に実際に導入したのは、田沼政権が初めてでした

卓越した官僚統制
田沼政権は勘定奉行所の官僚を巧みに操縦しています。勘定奉行所は財政・経済・司法を担う事務方役人の勤める役所ですが、それがゆえに能力如何によっては、下級官僚から昇進し勘定吟味役や勘定奉行にまで上り詰めることが可能でした。

明和~天明期のような、財政が極端に悪化した時代には、複雑で難解な財務運営が求められましたから、経理の才・功利の才に長けた役人が頭角を現していました。

田沼意次はそうした役人を、身分の上下を問わず、積極的に活用することで、斬新な政策を推進したのです。

農工商人からの献策重視
田沼政権は、豪農や豪商からの積極的な献策を取り上げています。

新たな税収源として、冥加・運上金制度を新設しましたが、その対象となった団体のほとんどは、幕府の指定ではなく、豪農や豪商など農民・町人層からの献策によったものでした。

田沼意次は、財政改善のためのアイデアもまた、幕府の内部にこだわらず、広く全国民に求めています

このような卓越した発想力と統治力こそ、田沼時代という、前例なき時代を創り出した、そもそもの原動力だったといえるでしょう


2018年2月18日日曜日

幕府財政をここまで改善!

田沼政権は、これまで述べてきた十大政策によって、人口減少に対応する社会をまがりなりにも形成しました。

その要点を整理しておきましょう。

石高経済から商業経済への移行に対応する
宝暦・明和・天明期には、江戸型集約農業の限界化によって、米穀生産を基盤とする石高経済構造にはさまざまな破綻が現れていましたが、それを補完するように、商業と金融業が急速に発展しています。

この推移が示しているのは「人口波動の後半になると、主導する文明が限界に近づくにつれて、産業構造ではハード産業の停滞とソフト産業の成長が目立つようになる」ということです。

田沼政権は、吉宗政権とは違って、こうした変化に敏感に対応した諸政策を展開しています。

「米価安の諸物高」に対応する
江戸型集約農業の限界化で米穀の生産も停滞しましたが、需要を形成する人口そのものも急減しましたので、需給バランスが崩れ、米価は低迷しました。

他方、商業資本の拡大で、町人層を中心に消費文化が興隆し、余剰財や選択財の需要が急増しましたから、衣服・装飾品から奢侈品・遊興品まで、諸物の価格が上がりました

この変化は「人口波動の後半になると、消費構造ではハード商品の廉価化とソフト商品の高価化が同時に進行する」ことを示しています。

田沼政権は、それまで無視されていた、こうした動向をいち早くキャッチし、これに見合った政策を展開しています。

商業・金融業への増税で財政改善
以上で指摘したことにより「人口波動の後半には、ハード産業よりもソフト産業の方がより利潤を拡大させる」社会が到来します。

明和・天明期にも、商品流通を牛耳る株仲間や金融経済を動かす札差など、新興の豪商層に冥加金や運上金などの新課税を設け、幕政の財源を拡大しました。

先に述べたように、冥加金とは、山野河海などの利用権や営業権を幕府から許可された商工業者が、収益の一部を献金として上納するものであり、運上金とは、商業、工業、運送業、漁業、狩猟などに従事する者に課せられた、新たな租税です。

田沼政権は、新たに拡大する産業分野の利潤を的確に捉え、課税構造を大胆に変換することによって、悪化する財政を積極的に立て直していきます



 こうした政策の展開によって、天変地異による悪条件の拡大にもかかわらず、上図に見られるように、田沼政権は幕府財政をなんとか立て直しています

2018年2月7日水曜日

田沼政権の10大政策・・・その3

前々回、前回に引き続き、田沼政権の行った10大政策の9~10を紹介します。

第9政策=農村・農民を救済する

江戸期の集約農耕社会を支えていた米穀生産の限界化と、それに代わるように台頭した商品作物の急速な拡大。この極めて跛行的な農村環境の中で、田沼政権が行った農民・農村政策は次の3つにまとめられます。

村方騒動の抑圧・・・宝暦・明和期(1751~1771)になっても、農村では享保期以来の百姓一揆が依然として続いていましたが、その目標は多様化し、従来からの年貢減免に加えて、折から拡大してきた商品物資の生産や流通に関する統制・独占への反対騒動や、村役人の地位をめぐって旧村役人・村方地主・一般農民の三者が対立するという村方騒動も急増しました。

これに対して、田沼政権策は積極的な救済というより、消極的な抑圧で対応しました。宝暦12年(1762)5月、百姓が江戸に集合したり門訴を行なうことを厳禁する布告を出しています。商品経済を推進しようとする意次にとって、農村・農民対策は後回しであったと思われます。

人口減少改善対策・・・荒廃する農村では、人口もまた減少しましたから、幕府は明和2年(1765)10月には「間引き禁止令」を出し、安永6年(1777)には百姓の江戸出稼ぎを禁じたうえ、新田開発を促しています。

③ 農村救済対策・・・安永・天明期(1772~1788)になると、世界的な異常気象で旱魃、洪水、噴火、冷夏などが続きました。とりわけ、天明3年(1783)3月の岩木山噴火、7月の浅間山噴火で東日本各地に火山灰が積もり、日射量の低下で冷害も拡大して、天明4年(1784)には各地で飢饉が広がりました(天明の大飢饉)。

すでに米よりも商品作物を栽培する農家が増加し、米は他地域から購入する農村も増えていましたから、凶作となると、その被害が増幅されました。



そこで、幕府は農村救済対策として、天領の年貢率を下げ、宝暦・明和期の39~37%から、安永期には34%台、天明期には33%台へ落としました。また天明4年(1784)7月には、関東郡代伊奈半左衛門に命じて、武蔵・下総一帯に御救米を配らせ、さらに天明6年(1786)には、被害の多かった東日本の18藩に対し、飢饉対策として数万両の拝借金を貸与しました。

第10政策=都市・町人を救済する

商品経済の発展に伴って、江戸や大坂などの大都市では、新たな豪商が増加し、豊穣な消費文化も生れていましたが、他方では社会変化に追いつけない困窮町民もまた増加し、米価高騰の折にはしばしば打毀しを起こしていました。こうした事態に対して、田沼政権の2つの政策で対応しています。

株仲間・札差への増税対策・・・このころから、旗本・御家人向けの蔵米を担保にした高利の貸付で財をなし、豪奢な暮らしぶりを誇る札差が台頭しました。


享保9年(1724)に株仲間が認許され、安永7年(1778)に江戸市中で109軒に限定されたころから急速に増加しました。札差の貸付利子率は年18%程度で、市中の質屋等より安かったのですが、さまざまな不正利殖によって利潤を増やしたからです

安永・天明期(1772~89)になると、札差たちは江戸豪商の典型となって、18人の大通人、つまり「十八大通」と称される、蔵前風の豪勢な消費風俗まで生み出します。

その札差仲間に対しても、幕府は安永8年(1779)6月、1万両を貸付けていますが、同時に、認可した株仲間などから運上金や冥加金を税として徴収し、幕府財政の改善に成功しています。

困窮町人・無宿人救済対策・・・天明期に飢饉が続発すると、米価も一転して上昇し、江戸や大坂などの大都市では困窮する町人や無宿人が増加しました。これに対して、田沼政権は、治安の維持とともに窮民の救済を実施しています。

天明4年(1784)4月には米の売り惜しみを禁じる一方で、「徒党・打ち壊し禁止令」を出し、天明6年(1786)には、江戸の困窮者に対して、救米6万俵と救金5万両を出しています。



また安永7年(1778)4月から、江戸府内の無宿者を捕らえて、佐渡鉱山へ送っていましたが、天明4年(1784)になると、米価高騰で流民が急増したため、深川に6万坪の無宿小屋に作って収容しました。


以上で見てきたように、田沼政権の諸政策は大胆な発想転換の下に展開されていますが、それゆえに必ずしも成功している訳ではなく、失敗もまた重なっています。

にもかかわらず、明和~天明期(1764~88)の20数年間は、延享~宝暦期の不機嫌な時代と比べると、庶民が中心となって、文化や芸術が充実する社会となりました。

その意味では、人口減少に柔軟に対応して、縮みながらも濃くなる、いわゆる「濃密社会」の典型といえるでしょう。

2018年1月30日火曜日

田沼政権の10大政策・・・その2

前回に引き続き、人口減少社会に対応すべく、田沼政権の行った10大政策のうちの6~8を紹介します。

●第6政策=新しい産業を振興する

田沼時代は、石高経済が限界化し、商品経済が拡大する中で、幕府の財源となるような、新たな産業の振興が求められていました。

こうした要請に応えて、田沼政権がまず取り組んだのは、鉱山の開発でした。宝暦~明和期になると、新たな貨幣の素材として銀が必要でしたが、国内の生産量だけでは無理でしたから、宝暦13年(1763)には中国から、明和2年(1765)にはオランダから、それぞれ銀を輸入しています。その見返りとして銅の輸出が必要となりましたので、政権は国内銅山の開発に取り組みました。

続いて鉱物資源の流通統制にも手を付け、明和3年(1766)に大坂に銅座を設立して、諸国で採掘された銅を一手に集荷させたうえ、独占的に販売して、銅の増産を奨励しました。明和4年(1767)になると、金・銀・銅・鉄・亜鉛鉱山の新規開発や既存鉱山の再開発を促し、天明6年(1786)には大和金剛山の金・鉄採掘を命じています。

もう一つは、急速に発展してきた蘭学を応用して、輸入品を国産化することでした。朝鮮人参、白砂糖、輸入品の国産化などを積極的に推進し、殖産興業に努めています。




●第7政策=貿易を見直す

当時の国際貿易の課題は、貴金属の輸出を抑えて、俵物(漁業加工物)の比重を増やすことでした

第6政策で述べたように、宝暦13年(1763)には中国から、明和2年(1765)にはオランダから、それぞれ銀を輸入しましたが、これには当然、対価となる輸出商品が必要でしたから、田沼政権は銅山の開発とともに、俵物の生産・輸出を積極的に奨励しました。

当初は個々の商人から別々に購入していた俵物を、延享元年(1744)からは請負商人を指定して独占的に買い集める方式へ切り替え、さらに天明5年(1785)には、長崎会所自らが産地に赴く「直買方式」へ移行させました。

「直買方式」では、大坂・箱館・長崎に俵物役所を、また下関・江戸に指定問屋をそれぞれ設置したうえ、全国に世話人や買い集め人をおき、会所の役人が浦々をまわって即金で買い上げるしくみを作り上げました。

●第8政策=大名・旗本を支援する

石高経済が破綻する中で、窮地に陥った大名や旗本の救済が急務となりましたが、ここでも田沼政権は伝統的な支援方法を改め、商人層の活用を進めています。

明和8年(1771)4月、幕府は5カ年の倹約令を発するとともに、財政支援のため大名・旗本などへ貸与する拝借金制度を停止し、さらに天明3年(1783)の7カ年倹約令によって全面的に停止しました。

しかし、困窮する大名・旗本が増えたため、政権は拝借金に代えて、天明3年(1783)に新たな御用金政策を打ち出しました。大坂豪商の巨額な資金を大名・旗本への金融や幕府の利益に活用するのが目的でした。

天明5年(1785)になると、この制度を強化するため、第2次御用金令を発しました。貸付金の利息が7分、そのうち1分を幕府に上納するもので、幕府は最大で6万両を手に入れる計画でした。しかし、豪商たちが「貸し渋り」という手法で抵抗したため、発令して1年も経たないうちに中止されました。

この失敗を巻き返すため、田沼政権は新たな金融政策として、天明6年6月、全国御用金令とそれを財源とした貸金会所設立を構想しました。

新しい令は、諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両、全国の百姓は持高100石につき銀25匁、全国の町人(地主)は所持する町屋敷の間口1間につき銀3匁を、それぞれ天明6年から5年間、毎年出金せよ、と命じるものです。大坂の豪商に限らず、全国の百姓、町人、寺社に「広く薄く」御用金をかける、という計画でした。

貸金会所は、こうして集めた御用金に幕府が資金を加えて大坂に設立したもので、会頭が融資を希望する大名・旗本に年7朱(7パーセント)の金利で貸し付ける機関です。その担保には、大名・旗本が発行した米切手か、あるいは借金額に見あった大名・旗本領の村高をあて、返済が滞った場合には、米切手を換金するか、それらの領地を幕府の代官が管理して年貢で返済する、という方式でした。年利7朱はかなり低利ですが、返済不能の場合も確実に元利を回収できるしくみになっており、貸金会所はいわば大名・旗本向けの幕府銀行といえるものでした。

2つの計画がうまくいけば、70万両を超える金額が集まる見込みでした。しかし、これについても全国民からの猛烈な反発にあって、わずか2カ月足らずの8月24日に中止されています。

以上のように、田沼政権は従来の石高経済を脱した諸政策を展開していますが、あまりの斬新さ、あるいは性急さのため、しばしば頓挫しています。

2018年1月17日水曜日

田沼政権の10大政策・・・その1

田沼政権は人口減少社会に対応して、さまざまな政策を展開しています。

前政権・八代将軍・吉宗の厳しい倹約政策と年貢政策で、幕府財政は一時的に改善されていましたが、天領への搾取を強めたことで、延享~宝暦期に入ると、百姓一揆が増発し年貢は徐々に減少し始めます。

宝暦期が進むにつれ財政は急速に悪化したため、政権を握った田沼は石高経済を維持・再建しつつも、新たな財源の拡大に全力を注ぎます。

その努力が実って、13年間で年間収支を黒字に転換させ、以後10年間もプラス状態を保っていきます。

この成功を基礎に、田沼はさらに長期的な政策にも取り組み、新たな貨幣・金融・課税政策、斬新な産業育成政策、新田開発や蝦夷地開発政策を展開しました。

これらの点については、先達研究者のさまざまな研究がありますから、これらを基礎に独自の視点から整理してみますと、次の十大政策が浮かんできます(詳細は電子本『
平成享保・その先をよむ』参照)。

●第1政策=財政を再建する
石高経済から商品経済へ、経済構造が移行している以上、幕府財政の財源もそれに対応した多角化が必要でした。そこで、新たに強化したのが、冥加金や運上金という課税制度です。冥加金とは、山野河海などの利用権や営業権を幕府から許可された商工業者が、収益の一部を献金として上納するものです。また運上金とは、商業、工業、運送業、漁業、狩猟などに従事する者に課せられた、新たな租税でした。

●第2政策=米価を引き上げる
享保期以来の「米価安の諸色高」は、20年を経た宝暦期にもさらに強まっていましたので、田沼政権はまずは「米価高」をめざして①囲籾、②米切手統制、③買米など米価政策を実施しました。囲籾とは、籾米を各藩内に留め置き、流通量を減らして米価を上げるもの、米切手統制とは、年貢米を落札した米仲買人が発行する米切手を統制するもの、買米とは大坂の豪商に命じた御用金で市中から米を買い上げて米価を高くするものでした。

●第3政策=物価を引き下げる
幕府の支出を抑えるためには、物価の引下げや安定化も緊急の課題でした。そこで、田沼政権は、一方では株・座・会所などによる商工業団体への価格統制を強化し、他方では幕府の介入で諸色価格の安定を図っていきます。とりわけ、都市の拡大と人々の暮らしの変化によって需要が増えた燈油と、国民的な衣料となった木綿については、その価格を安定させるために、株仲間を通じた流通統制を実施しました。

●第4政策=3貨制度を見直す
当時の通貨制度は、江戸時代前期に作られた金・銀・銭の3貨制でしたが、元禄・享保を経たころから、石高経済から商品経済への移行が急進したため、全国的な統一貨幣への要求が高まっていました。そこで、田沼政権は「明和五匁銀」と「南鐐二朱銀」を発行して、統一貨幣をめざしました。

●第5政策=農地・国土を拡大する
戦国時代から一貫して拡大を続けてきた農地開発は、元禄期前後に開発適地の限界化で停滞するようになり、農業政策の中心も土地生産性の最大化をめざす精農主義へと移行していました。しかし、徳川吉宗は改めて新田開発に取り組んでいましたので、田沼政権もこれを継承し、江戸町人の希望者に下野・下総・常陸の荒地を下付して新田開発を奨励し、下総国印旛沼・手賀沼の開拓、さらには蝦夷地の開発事業にも取り組んでいきます。

まずは5つの政策を掲げます。残りの5つは次回で展開します。

2018年1月8日月曜日

人減定着の時代・明和~天明期を振り返る

2060~2090年の人減定着社会は、明和~天明期(1764~89年)に相当し、人口減少にようやく慣れなじんで、その利点を徹底的に活用していく時代となる、と述べてきました。

明和~天明期の社会的特性についても、電子本『
平成享保・その先をよむブログ「平成享保のゆくえで詳しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。



①当時の人口は、明和5年(1768)の3150万人から安永9年(1780)の3121万人を経て、天明8年(1786)の3010万人にまで約140万人も減っています。


②この時代に幕政の実権を担って、大胆な政策を展開したのは、老中兼側用人の田沼意次でした。田沼は、紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意行の長男として、享保4年(1719)に江戸で生まれ、同19年(1734)、吉宗の世子・徳川家重の西丸小姓に抜擢されて、同20年(1735)に田沼家600石を継承しまました。

③田沼は延享2年(1745)、家重の九代将軍就任に随って本丸に入り、寛延元年(1748)に小姓組番頭格から小姓組番頭に、宝暦元年(1751)に御側御用取次側衆に、同8年(1758)に評定所への出座に伴って一万石の大名に取り立てられ、遠江国相良に領地を与えられました。

③宝暦11年(1761)に家重は死去しましたが、その遺言で世子の十代将軍・徳川家治の御用取次に留任し、明和4年(1767)に側用人、同6年(1769)、側用人のまま老中格・侍従、明和9=安永元年(1772)に老中へ昇進しました。側用人が老中になったのは田沼が初めてでした。

④天明年間(1781~1788)には、同3年(1783)に岩木山や浅間山が噴火し、日射量の低下で数年間、各地で深刻な飢饉が起こりました。そうした中でも、息子の田沼意知を若年寄に昇進させ、意次の権勢はいっそう拡大しましたが、翌天明4年(1784)、意知が江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起こり、前途にやや翳りが生じました。

⑤それでもなお意次は天明5年(1785)に1万石を加増され、遠江国相良藩5万7000石の大名になりましたが、天明6年(1786)、将軍・家治の死によって、閏10月に差控を命ぜられ、ついに失脚しました。

⑥以上の経緯で、短期間に異例の昇進をとげた田沼は、宝暦11年(1761)ころから、明和(1764~71)、安永(1772~80)を経て、家治の死去で失脚する天明6年(1786)までの20数年間、幕政の中枢を担っていきます。

⑦田沼の政治は、八代将軍・徳川吉宗による享保の改革や大岡忠光による側用人執政の後を受けて、幕政の基礎である「石高経済」を根本から見直し、重商主義的な財政運営を導入することに成功しました。その画期性ゆえに、彼の執政した20数年は「田沼時代」と名づけられています。

こうしてみると、人減定着期である明和~天明期とは、「石高経済」から「重商経済」への一大転換期でもあったのです。