2015年3月11日水曜日

日本人も人口を抑制してきた!

日本人もまた人口を抑えてきました。

日本の歴史を振り返ってみると、江戸時代中期の享保から化政期に至るほぼ1世紀が、最も典型的な人口抑制時代でした。当時の人口は1732年に3230万人でピークに達した後、1790年ころまで約60年にわたって減り続け、以後は停滞しています。

直接のきっかけは、気候の極端な悪化でした。1730年代に一旦上昇した気候は、その後急落したため、大飢饉を何度か発生させています。

だが、気象の変化はあくまでもきっかけにすぎません。本質的な要因は、当時の人口容量を支えていた集約農業にさまざまな制約が強まったからです。最大の背景は、もともと亜熱帯性の植物である稲作を東北地方にまで普及させていましたから、気候のよい時はともかく、大規模な気候不順が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。

その結果、出生数と死亡数の両面から、さまざまな人口抑制装置が作動しました。これにも直接的な方法と間接的な方法があったようです。

第一は直接的な出生抑制です。当時の農民たちは、自らの生活水準を維持するために、晩婚・非婚や間引きや堕胎を行なっています。従来の説では、この時期に農業生産が停滞したため、国民の多くが貧困に喘いで“積極的”に人口を抑制したのだ、と理解されていますが、本当はそうではありません。

 


アメリカの歴史人口学者S.B.ハンレーSusan B. Hanley,1939~)とK.ヤマムラKozo Yamamura, 1934~)は『前工業化期日本の経済と人口』の中で、次のように述べています。



江戸期の農村で行われた人口抑制装置には「養子や十分な所得が得られる時のみ結婚を許可すること、とくに女子について初婚年齢を規制すること、そして堕胎と間引きがあった」と指摘しています。

つまり、①所得水準による婚姻の制限、②女子の初婚年齢の規制、③結婚後の間引きや堕胎、の3つです。

所得水準による婚姻制限
三河湾岸の西方村(現・愛知県宝飯郡御津町)の「宗門改帳」を調査した2人は「天明飢饉以降、西方村では、直系でない者と結婚した女子は一人もいなかった。したがって、一人の息子のみが父親の後をあてにできたにすぎず、その他の者は他所稼ぎに出るか、家に留まり、独身のまま兄に仕えるかのどちらかであった」とし、「通常、結婚が許され、家族内に留まることができたのは息子兄弟のうち一人にすぎなかった」と一般化しています。

女子の初婚年齢規制

当時の平均初婚年齢が22歳とかなり高かった背景には、さまざまな規制があったからだ、と2人は述べています。「だれが結婚し、だれが独身で留まることになるかの選択は何の基準もなく行なわれたのではなく、明らかに経済的理由をもっていたと考えることができる。また仮に彼ら自身の経済的な配慮が働いていなくても、人々は藩の規制になかに自分たちの行動を束縛する要因を見出し」ていた、というのです。

結婚後の間引きや堕胎

「間引き」という日本語は「苗を間引く」ことに由来する嬰児殺しを意味していますが、飢饉時には多数の事例がみられたため、諸藩は相次いで禁令を出しています。また堕胎は牛蒡科の「いのこずち」や水銀複合薬などの薬品、腹部への圧迫や異物挿入などの物理的手法がありました。これに加えて、19世紀初頭には主な都市に堕胎医まで登場していた、と述べています。

そして重要なことは、こうした方法が飢饉や凶作のために「やむなく」採用されたのではない、ということです。そうではなく、「これらの村の人口が一人当たりの所得を最大化し、またそれによって生活水準の維持、改善することに結びついた慣習に従っていた」ためだった、というのです。

つまり、当時の両親が出生数の抑制に走ったのは、多くの子供を持つよりも1人当たりの所得を最大化し、生活水準の維持・改善をめざすという選択の結果でした。元禄期の高度成長を通じて、すでに著しく高い生活水準を経験していた彼らは、その水準を維持するために、〝予防的〟に人口抑制へ向かっていったのです。


(詳しくは古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)

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